見事なストーリーテリングでインターネットやWeb2.0が日本で起こした事柄、事件を綴っていくタッチはビジネス書だとは思わず、ノンフィクションの小説のように捕らえると良いと思う。
本書では「言論」という点に終始しているが、言論という枠を超えて、政治、経済という社会全体へ変化の警鐘を鳴らしているようにも聞こえる。
気になったフレーズを引用しておく。
マスメディアであろうとブログであろうとどれもネットの世界ではフラットに存在する。その中ではかつてのようなマスコミの権力は通用しない。パワーを持つのは読者のアテンションを惹きつけたエントリーのみであり、言論の力こそがネットのパワーとなるのだ。
しかしそうやってすべてがフラット化してしまうと、危険な言論が出演したときにそれを押しとどめる「防波堤」は消滅してしまうのではないか? かつては新聞やテレビという「公器」が果たしていた防波堤の役割を、いったい誰が担えるのか?
フラット化が責任の所在を果てしなく分散させていき、最終的には「連帯責任は無責任」といった状態を生み出しかねないという危惧もある。
ジャーナリストを批判し、さらに反論され、お互いに議論し、そういうコミュニケーションが行われ、そのコミュニケーションがインターネット上でオープンに見えるかたちで表出してきたことこそ、実は公共性の最大の保証になっていたのではないだろうか?
そうした一連のやりとりの過程そのものが、社会を構成するわたしたち全員の前に、可視化されているということ。
そのやりとりに「わたし」の誰もが参加し、評価し、非難し、批判し、分析できるような仕組みがオープンなかたちで提示されていること。
そこにマスメディアや政府、大企業などの中央コントロールが存在しないこと。
そうしたこと自体がそのまま、実は「わたし」たちの集合体全体の「公」となっているのである。
ネットが実現したのは決して「絶対的主義」を振りかざす群れではなく、むしろ「相対的正義」を主張する何千万という小ブロゴスフィアなのである。それらは、時として確かに一つのターゲットに向けて集中的に批判を浴びせる。
しかし重要なのは、それらに全て「自由」が保障されており、互いにチェックしあう反論の機会が与えられているということである。もしも今混乱があるとすれば、これらの小宇宙が、火花を散らしているのであり、何か「絶対的正義」を振りかざす一連の群れが秩序だって一つの対象を攻撃しているというのとは違う。
無数の「わたし」が公共性を担保することこそが、新たな時代の幕開けを告げるg号砲となるのである。
彼ら古い人たち(権威に寄りかかった知識人)の時代は、まもなく終わる。一般の人々から批判され、自分の言論をまな板の上に乗せる覚悟をもてない言論人は、もう消えていくしかないのだ。
批判、それに対する反論、そして再反論、そうした議論のすべてが可視化されていくことこそが、新たな公共性を生み出していくのだ。
そしてインターネットにおける議論という公共性は、新たな民主主義の可能性へとつながっている。
インターネットの出現により、言論は一部の権威から全体へとフラット化されていっている。
「正しさ」=「公共性」を何が担保するのか?
というのが引用部分の論点で、私は正しいと思う。
では次に僕らが考えなくてはならないのは、この「フラットさ」に親しんでしまうであろう我々がインターネットの言論の中だけがフラットで、日々生きているリアルの世界の政治、経済で同じ間尺を用いてしまうであろう点である。
本書は最後に「ラジカルな民主主義」という言葉を残している。
根本的なとか徹底的な民主主義という意味だと思うが、これから経済人である我々はこの点は大きく意識せざるを得ないだろうと感じている。